最近、
「分かりました」という漢字が、当たり前のように使われている。
ニュースでも、文章でも、「わかる」という話し言葉を使ってもその時に想像する漢字は「分かる」そしてその話題は終わり次へ進んでいく。
早いし、便利だし、角も立たない。
けれど私は、ずっと引っかかっていた。
それは本当に「分かる」は「理解した」と言えるのだろうか、という違和感だ。
「分かる」という言葉に使われている漢字は「分」。
分ける、区切る、線を引く。
本来は、物事を整理したり、判別したりするための字だ。
それを「理解した」という意味で使うことに、
おかしいと思わなかったのだろうか。
そんなことを考えると、
「分かる」が主流になった理由を、
つい深読みしたくなってしまう。
分断を起こすため?
感じることを減らすため?
考えすぎると、都市伝説みたいな話にもなりそうだ。
でもきっと、もっと単純な理由だと思う。
分けたほうが楽だった。
早く処理できた。
揺れずに済んだ。
その積み重ねの結果、「分かる」だけが残った。
以前は、言葉にもう少し選択肢があった。
「理解する」「解る」「判る」。
それぞれが、違う深さと責任を持っていた。
「理解する」は、理(ことわり)を解くこと。
筋道を追い、背景に踏み込み、時間をかけて向き合うこと。
「解る」は、腑に落ちる感覚。
説明よりも先に、体や感情が反応するような理解。
「判る」は、白黒をつけること。
判断し、引き受ける覚悟を伴う言葉だった。
それに比べて「分かる」は安全だ。
分けて把握したことにすれば、その場を通過できる。
感情を動かさなくていいし、責任も曖昧にできる。
けれど、私が19年関わってきた世界は、
その「分ける」という行為と、どうしても相性が悪い。
ワンズ・ハーツの仕事。
動物たちとの関係。
別れのケア。
生と死のあいだに立つ時間。
繋がりを預かるということ。
それらはすべて、
分かれた瞬間に壊れるものばかりだ。
分けた瞬間、
線を引いた瞬間、
「こちら側」「あちら側」にした瞬間、
手応えが消えてしまう。
だから私は、「分かった」と言われると、
どこかで息苦しさを感じてしまう。
それは説明が足りないからでも、
言葉が上手くないからでもない。
構造的に、分断が通用しない世界で生きてきただけだ。
命や感情は、理解しきれない。
説明されても、納得できないことのほうが多い。
それでも、確かにそこに在り続ける。
一月は、私にとって毎年、生と死を強く意識する月だ。
命日が重なり、別れを思い出す。
けれど私は、命日をあまり大切にしない。
区切りをつけたいわけではないから。
一度終わったとしても、
繋がりは終わらないと知っているからだ。
2026年の漢字を一字選ぶとしたら、私は「生」を選んだ。
生きることは、分けて理解するものではない。
分析して整理できるものでもない。
それでも、日々の中で、少しずつ「解っていく」。
分からないまま、揺れながら、触れながら。
分かったふりをしない。
分けた瞬間に壊れるものを、大切に扱う。
2026年は、「生」という一字とともに、
分からないまま、生き切る一年にしたいと思っている







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