えっと・・・
前回更新したのいつでしたっけ・・・
あ、ななちゃんは元気ですよ。
インスタは更新中ですので是非フォローお願いいたします。

あ、ななちゃん今日でうちの子1ヶ月記念日だそうです。今朝鷹栖神社に報告してきましたよ!


小砂利食って叱られた図
さて、タイトルの件
実は生きるか死ぬかの経験をした先週でした(身内が)だからと言ってブログが更新できない理由には全くなりませんw
結構な奇跡の連続だったのですが、本人が無事に退院したらその奇跡を詳しく書きます
で、ちょっとホッとしたときに降ってきたテーマがタイトルなのですよ。
哲学大好きなんで、ちょっと考えてみた
生きる延長上に死はあるのか?それとも死の上に生は成り立っているのか?その2つに絞られるべきものでもなく、生と死は相互に関連し合い、互いに対立するだけでなく、補完しあう存在でもある。
生と死は一方通行の関係性で絶対に逆はない!という観点から見れば、死は生の一部であり、生きる限りは死が必然的に訪れるもの・・・人間は有限の存在であり、いかなる努力や科学の進歩も、絶対的な不死を実現することは今のところできない。そのため、生は必然的に死を伴うものと考えることができる。
イエスキリストの復活は別にして…

死の上に生が成り立っていることについても、死は生命の終焉を意味するが、その終焉がなければ生命そのものの意味も希薄になる。死の存在によって、生命の貴重さや尊さが浮き彫りになる。死を通じて、私たちは生の限られた時間を大切にし、生きることの本質を見つけることができる。
でも元気でいると、なかなかそこには気づかず、当たり前のように時は過ぎていく。
一人の人間にとっては死は絶対的な終わりを意味するかもしれませんが、生命の継続という視点から見れば、死は新たな生の始まりを意味することもあります。生物は死を通じて環境に栄養を還元し、新たな生命を育むのです。このような視点から見れば、死は生の継続に不可欠な要素となっています。
(生と死を調べていたらあたしのチャットGPTが教えてくれた)
↑ここを基本に捉えると、死も決して恐ろしいものではないのだけど、なぜか人間が一番と考えているあたしたちにとっては、朽ちて何者になるわけでもないし、純粋に土に還るわけではないから難しい。
死というあらかじめ設定された生の終着点に向かっていることを時々思い出すことで、生命の限られた時間を大切にし、生きることの尊さを感じる
死はあたしたちに生の意味を問いかけ、存在の有限性を思い起こさせる。身近に起こる死を通じて学ぶべきことが多いのはそのため。
あたしは動物たちから魂は永遠ということを見せてもらっている。
でもそれだって、見せてもらっているのか、自分の都合のいい解釈でそう見えているのかはわからないけど、少なくても死について自然の摂理として受け入れる強い心を持ってしまった。
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何度も繰り返される【死】の説明に、あたしだけが平然に頷けていたのは、やっぱり冷たい人間なのか?それとも心のどこかで絶対大丈夫と確信があったからなのか・・・
元気で退院できますように。倭が待ってるよ!
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